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まん延するニセ科学

菊池 誠
大阪大学サイバーメディアセンター大規模計算科学部門,
(兼) 大学院理学研究科物理学専攻,
(兼) 大学院生命機能研究科.

Photo of Prof. Macoto Kikuchi

みなさんは、「ニセ科学」という言葉を耳にしたことがあるでしょうか。

これは、見かけは科学のようだけれども、実は、科学的とはとても言えないもののことで、「疑似科学」や「似非科学」などとも呼ばれます。

『そんなものがどこにあるんだ』とお思いの方も、例として、血液型性格判断や、マイナスイオンや、ゲルマニウムブレスレットなどの名前を挙げれば、『ああ、そういうもののことか』と納得されるかもしれません。それとも、かえって、『え?』と驚かれるでしょうか。

例えば、皆さんもよくご存知のように、『マイナスイオンは健康にいい』と盛んに言われ、ひところは大手家電メーカーもこぞって製品を売り出すほどのブームになりました。マイナスイオン製品がよく売れたのは、もちろん、マイナスイオンの健康効果に科学的な裏づけがあると信じた人が多かったからでしょう。テレビや雑誌などでも頻繁に取り上げられましたから、それを疑えという方が無理な話かもしれません。

しかし、実は、マイナスイオンが身体に良いという科学的な根拠は、ほぼない、といってよいのです。あのブームは、まったくの空騒ぎでした。大手メーカーまでが、なぜ、その空騒ぎに乗ってしまったのか。きちんと検証しておく必要があります。

いまは、ゲルマニウムを使った製品に、人気が出てきているようです。しかし、実のところ、ゲルマニウムを身に付けたところで、せいぜいお守り程度の効果しか期待できません。

いま、このような、科学のようで科学ではない、「ニセ科学」が蔓延しています。

こういった「ニセ科学」のなかに、しつけや道徳に関わるものがあります。その話をしたいと思います。

よく知られている例の一つは、『テレビゲームをし過ぎると、脳の機能が壊れる』といういわゆる「ゲーム脳」説です。しかし、この説に、科学的に信頼しうる根拠はないのです。その意味で、これもまた「ニセ科学」です。

もちろん、どんなゲームにもそれなりの物語性がありますから、人格形成に影響することはあるでしょう。しかし、それだけなら、小説やテレビドラマなどでも同じです。脳の機能が壊れるかどうかとは、まったく別の話なのです。

ところが、この説は、教育関係者に広く受け入れられています。全国各地で、教育委員会やPTA主催の講演会が開かれているようです。

もちろん、子供がゲームばかりするので困っているという親は多いでしょうし、学校の先生もそういう風潮を何とかしたいと思っているのでしょう。
そういうみなさんにとって、「ゲーム脳」説が一見、福音に思えたことは分かりますが、科学的根拠のないものに飛びついても、仕方がありません。

そもそも、ゲームのし過ぎを何とかしたいというのは、科学の問題ではなく、しつけの問題だったはずです。子供が四六時中ゲームをして困ると考えるなら、やめるようにきちんと指導するべきでしょう。しつけの根拠を科学に求めようとしてはいけません。

もう一つ、今度は、水にまつわる奇妙な説を紹介しましょう。

水に「ありがとう」と言葉をかけると、きれいな結晶ができ、「ばかやろう」と言葉をかけると、きれいな結晶ができないというのです。
水の結晶というのは氷のことですから、これは、言葉の良し悪しが氷の形に影響を与えるという主張です。しかし、もちろん、そんな馬鹿なことはありません。

水は、ただの物質です。言葉を聞く耳も、文字を読む目もなければ、言葉の意味を感じる心もありません。『水が言葉に影響される』など、いい大人が信じるような話ではなかったはずです。ところが、これが広く信じられています。『ありがとうは水にも分かるほど良い言葉だ』といわれると、それだけで、『いい話』だと思い込んでしまう人は、意外に多いらしいのです。

この説が、いくつもの小学校で、道徳の授業で使われていることが問題になっています。言葉遣いを教えるのに、格好の教材と思われたようです。

しかし、本当にそうでしょうか。

この授業は、たくさんの問題をはらんでいます。

まず第一に、明らかに科学的に誤っています。理科離れや学力低下が言われる今、道徳だからといって、ここまで非科学的な話を、事実であるかのように教えていいはずがありません。

しかし、それ以上に問題なのは、言葉遣いの根拠を、水という物質の振るまいに求めようとしていることです。

言葉は、人間同士のコミュニケーションの手段ですから、その使い方は、あくまでも、人間が自分の頭で考えなくてはならないはずです。「ありがとう」はどんな状況下でもいい言葉なのか。それを考えてみれば、この話のおかしさは分かるはずです。

「ゲーム脳」がしつけの根拠を科学に求めるものだったのと同様、ここでは、道徳の根拠を自然科学に求めようとしています。それは科学に対して多くを求め過ぎです。

しつけも道徳も、人間が自分の頭で考えなくてはならないことであって、自然科学に教わるものではないはずです。

さて、「ニセ科学」が受け入れられるのは、科学に見えるからです。つまり、ニセ科学を信じる人たちは、科学が嫌いなのでも、科学に不審を抱いているのでもない、むしろ、科学を信頼しているからこそ、信じるわけです。

たとえば、マイナスイオンがブームになったのは、『プラスは身体に悪く、マイナスは身体に良い』という説明を多くの人が「科学的知識」として受け入れたからです。

しかし、仮に、科学者に、『マイナスのイオンは身体にいいのですか』とたずねてみても、そのような単純な二分法では答えてくれないはずです。

『マイナスのイオンといってもいろいろあるので、中には身体にいいものも悪いものもあるでしょうし、身体にいいといっても取りすぎればなにか悪いことも起きるでしょうし、ぶつぶつ……』と、まあ、歯切れの悪い答えしか返ってこないでしょう。

それが科学的な誠実さだからしょうがないのです。

ところが「ニセ科学」は断言してくれます。

『マイナスは良いといったら良いし、プラスは悪いといったら悪いのです。

また、ゲームをし過ぎるとなぜ良くないのかといえば、脳が壊れるからです。

ありがとうは、水がきれいな結晶を作るから、良い言葉なのです。』

このように、「ニセ科学」は実に小気味よく、物事に白黒を付けてくれます。この思い切りの良さは、本当の科学には決して期待できないものです。

しかし、パブリックイメージとしての科学は、むしろ、こちらなのかもしれません。『科学とは、様々な問題に対して、曖昧さなく白黒はっきりつけるもの』科学にはそういうイメージが浸透しているのではないでしょうか。

そうだとすると、「ニセ科学」は科学よりも科学らしく見えているのかもしれません。

たしかに、なんでもかんでも単純な二分法で割り切れるなら簡単でしょう。しかし、残念ながら、世界はそれほど単純にはできていません。その単純ではない部分をきちんと考えていくことこそが、重要だったはずです。そして、それを考えるのが、本来の「合理的思考」であり「科学的思考」なのです。二分法は、思考停止に他なりません。

「ニセ科学」に限らず、良いのか悪いのかといった二分法的思考で、結論だけを求める風潮が、社会に蔓延しつつあるように思います。そうではなく、私たちは、『合理的な思考のプロセス』、それを大事にするべきなのです。

Ryoichi Mizuno - Scientific Computer Graphics

Created: 2007/09/04

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